中江藤樹と大洲高校
大洲高校は、大洲中学校となって以後約100年間、中江藤樹との関わりの中で校風を育成し、生徒たちにその自覚を促してきました。それは「中江藤樹邸址(ていし)校」という言葉で表現されてきました。その始まりは、江戸時代初期の代表的儒学者中江藤樹が少年時代から青年時代にかけて過ごした屋敷が本校の一角に存在していたことに着目したからでした。すなわち、中江藤樹の屋敷のあった址にある学校ということで、「中江藤樹邸址校」という表現がなされるようになりました。
すでに1907(明治40)年には、滋賀県安曇川町の藤樹書院から藤の根分けを受けて校庭に移植し、「遺愛の藤」と名付けて中江藤樹とのゆかりを結ぼうとしています。以来、機会あるごとに中江藤樹との結びつきを強めてきました。主立ったものを次にあげてみます。
1909(明治42)年には校歌が制定され、作詞家堀澤周安はその冒頭に「近江聖人の跡とめし・・・・」と中江藤樹のことを歌い込みました。さらに1939(昭和14)年、窪田哲二郎の寄託により、百石取りの武士の住居を模した和風住宅「至徳堂」が落成しました。新入生はこの「至徳堂」で集団宿泊訓練を実施しました。
戦後しばらくは「邸址校」にふれることはありませんでしたが、1950年代になると復活し、1959(昭和34)年に「孝」の文字と「藤樹先生像」のレリーフをはめ込んだ碑の建立、1961(昭和36)年に和風庭園「天心園」の作庭と「中江藤樹青年像」の建立がなされました。さらに1970(昭和45)年には大洲高等学校指導目標が決定されました。それは「中江藤樹邸址校生徒としての自覚を持たせ、・・・」という書き出しではじまり、現在もそのまま引き継がれています。
このようにして、中江藤樹精神をバックボーンとする校風づくりが長い年月をかけてなされ、現在に至っています。